痒いところに手は届かない。

放置しすぎて、広告が出てくるようになってしまいましたが、どうしても暇になったので最近考えていることを。

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「届きそうで、届かないもの」

それが人に無意識の共感を起こしているような気がします。

 

もちろん、それは昔からブランドとして存在していたと思います。

「いつかはクラウン」みたいに。

しかし、その対象はモノよりも人、ひいては生き方に目が向いていると思います。

 

僕が思うその筆頭は「テラスハウス」です。

https://news.mynavi.jp/article/20140116-th/

この記事によるとコンセプトは「どこにでもいそうだけど、"手の届かない"男女6人」だとか。

 

実際に考えると、「夢に向かっている」という共通点で人が集まることは多くないはずです。ビジネスに関わるような人たちや、創作活動をしようとしている人たちが集まるシェアハウスならいくつかあるでしょうけど、「夢に向かっている」程度の共通点ではおそらく学びに欠けると思います。(僕が偏狭なだけですかね)

 

ある程度の美男美女を集めて作られた世界であるはずなのに、日常的で「ありそう」だと思わせられる。

「そんなに毎度風変わりで小綺麗な料理ばっかり作ってられるかい」と思ったりもするのですが、むしろそれが憧れになる。

 

これはフィクションに親しみすぎた僕らが、多少の現実味が現れるだけでフィクションをやすやすと受け入れてしまうようになっているのではないかと思います。

あるいは、自分たちとフィクションの距離感に居心地が悪く感じているのかもしれません。

 

なんにせよ、人は「作られた現実」に強く共感を示しているのだと思います。

 

それを強めているのはSNSの存在ではないでしょうか。

有名人の営為を身近に感じさせてくれるTwitterや、一般人でも一躍有名人として僕らを楽しませてくれるYoutuber、そして日常があまりに綺麗に切り取られたInstagram

 

そんな「作られた現実」に慣れてしまい、その世界に入り込む。

日常は憂きものとして時間が経つことだけを望んで過ごす。

その事実に気付かないならまだしも、気付いてしまってもそれを丸め込んでしまう。

あるいは「作られた現実」に対する批判者として現実逃避をする。

 

そんな風に生きている人も少なくないんじゃないでしょうか。

SNSを眺めるのは楽しいですし、友達が今何を考えているか知れることや、いつだって自分の思ったことを吐き出せる場所があること、そしてそれに返事が返ってくることは居心地が良い場に思えます。

 

しかし、SNSを距離が遠いから使うのではなく、距離が遠い「のに」使うものとしてしまうと、人との関係や現実を遠ざけ続けるものへと変わってしまうのではないでしょうか。

 

寂しいのに、話したいのに、近づきたいのに、SNSがあるから触れることが出来る。

それが「作られた現実」であればなお、自分の憧れとは遠ざかっていく。

 

遠ざかるからこそ、もっと近づきたくなって、「作られた現実」に共感を増す。

そして「作られた現実」は、インターネットを媒介にいつだって触れられて、そして更新速度がものを言う世界で。どんどん離れていく。

 

もちろん、その「作られた現実」の裏には製作者の努力の現実があります。

そしてまた、その「作られた現実」に向かって努力し、自分の現実を作っていく人もいます。努力している人は「届きそうで、届かない」人になっていくのでしょう。

 

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なんだか自己啓発ったらしいし、ある程度言われてきたことの焼き増しな気もしますが、自分への戒めとして書きました。

 

自分の道を決めあぐねたり、今に必死になれていなかったり、そんなことに悶々としていることも多く何かの気付きになるかなとじっくり考えてみたのですが、やっぱり頑張るしかないっすね。

 

じっくりとこの春休みを使っていきます。